私はこうしてユタになった!

又吉 陽子

「私は何のために生まれてきたのか?」
ユタの使命に辿り着く前、自分自身の疑問でした。
幼い頃から霊的体験が多く、見えない世界が存在するのは分かってはいましたが、ユタに相談に行くことはなく、まさか私がユタになるとは思いもしませんでした。

20歳の時、東京で就職していた私は東北出身の人と結婚しました。一女を儲けましたが、3年で別れ、娘を連れて沖縄に戻り26歳の時、再婚しました。2人の男の子を授かりましたが、再婚相手はギャンブルにのめり込み、私は悩んでいました。
人生の転機が訪れたのは20年前の36歳の時でした。
守護神の地蔵菩薩に運命的に出逢い、双子の子どもを授かり、闇の中(マイナス思考)にいた私は、光ある世界(プラス思考)へと思考が変わり、人生が良い方向へと進み、ユタの道へと導かれました。

 

~1997年~

守護神に導かれ

今から20年前、沖縄成田山へ初詣に行った時のことです。
本堂へ向かう急な上り坂の途中に地蔵菩薩像が建っていました。
地蔵菩薩の後方には参拝者を和ませてくれる、色鮮やかなピンク色のブーゲンビリアの花が咲き誇り、地蔵菩薩は赤ちゃんを抱き、近くには泣いている子や双子のように寄り添っている赤ちゃん像が・・・。

地蔵菩薩像

私はなぜか気になり、引き寄せられるかのように地蔵菩薩に手を合わせ、双子のような赤ちゃん像にお清めの水をかけました。
それから1ヵ月後の2月、体調がすぐれず産婦人科を受診したところ、驚いたことに双子を妊娠していました。

沖縄成田山で地蔵菩薩に手を合わせ、双子のような赤ちゃん像にお清めの水をかけ、その1ヶ月後に双子を授かるとは不思議でなりませんでした。

 

緊急出産

その頃の私はパート勤めをしていました。双子を妊娠していることから妊娠4カ月で退職し、出産にそなえていましたが妊娠6ヶ月に入り、血圧が上昇し妊娠中毒症と診断されました。
入院治療を行っていましたが血圧がなかなか安定せず、お腹の2人の子にも胎盤から栄養がうまくわたらず発育が悪くなっていました。
7月1日、NICU(新生児集中治療室)がある県立病院に転院。
7月8日、お腹の子の心音が弱くなり、母子ともに危険な状態に陥り緊急出産。
妊娠7ヶ月、28週でした。第一子は、か細くみ~んみ~と泣き、第二子は泣き声もあげず、仮死状態で生まれた我が子の体重は、第一子818g第二子638gの超未熟児。

お医者さんから、2人の救命はかなり厳しいと告げられ涙が止まりませんでした。

双子写真

それぞれの保育器の中で、いくつかの管に繋がれた小さな小さな2人、弱弱しいながらもゆっくり手足を動かし必死に生きようとしています。
「お母さんだよ、面会に毎日来るから頑張ってね」
保育器の中の我が子の体を触りながら声かけを続けました。

2人の名前に願いを込めて、第一子は健康ですくすく育つように健の字を入れ健太と名づけ、第二子は神さまからの助けが得られるという祐の字を入れ、祐太と名づけました。

出産から3週間経ち、お医者さんから「2人共、頑張ってますよ!」と。
2人共、大きな山を乗り越えたようです。

 

神ダーリ

私が神ダーリに入ったのは、双子を出産した1ヵ月後の1997年8月21日、旧盆入りの旧暦7月13日(ウンケー)の午後2時でした。
入院中の2人に面会に行く前に、私はシャワーを浴びていました。
どうしたのか急に鼓動が高鳴り、頭がものすごく苦しくなりました。
頭が痛いのではなく苦しいのです。
落ち着くこともできず、住まいの3階から飛び降りようとする私、それを必死に止めようとする私、まるで私の内に私が2人いるかのようでした。
「お母さん苦しい、助けて!」母に電話で助けを求めました。
娘の悲痛な訴えに母は姉と10分ほどで駆け付けてくれましたが、その間にも精神状態はどんどん悪くなり、まさに地獄の苦しみでした。
5日間の入院処置で精神状態が落ち着き、その後は精神科通院となりました。
朝夕に精神安定剤と眠る前に睡眠薬を服用して精神の安定をはかっていましたが、それでも何かに憑依されたのか、いきなり苦しくなる時もあり、常に頓服と水は持ち歩いていました。
神ダーリは幻覚、幻聴、不眠などを伴う一種の精神錯乱でユタになる為の厳しい通過点と言われています。

出産から3ヵ月後の10月30日、健太 退院。
片割れの祐太は、呼吸器が未熟な為にNICUに1年間、小児科病棟に2年間の人工呼吸器管理の長い入院生活を送りました。
3歳でやっと退院しても、気管支喘息の持病があり入退院を繰り返していました。
ギャンブル依存症の夫とは双子を出産後から別居生活。
私は精神の病を抱え、母や姉の協力を得ながら子供達を育ててきましたが、いつまでも別居状態では子供達のためにも良くないと考え、別居から5年後に離婚を決めました。

 

~2002年~

神様からのメッセージ

神ダーリに入り5年が経った2002年、春の早朝
「これからあなたはいろんな事が次々に起きユタになります。本にまとめなさい!」
眠りから覚めたばかりの私の頭の中にいきなり入ってきたのです。
言葉ではありませんでしたが、一瞬にして伝えたのがわかりました。

神様からのメッセージがあった2002年の午年、私の人生を大きく変える出来事が本当に次々に起きました。

 

臨死体験

2002年5月のある日の夜、4歳の祐太がまた喘息発作を起こし県立病院に救急搬送しました。
私はなぜだか急に気持ちが沈み、生きるのが嫌になり死を考えました。
鞄の中にはこの日に精神科で処方された、たくさんの薬が・・・。
病院から見える近くの山に行って死のうかな、と考えましたが子供の側がいいと、救急救命室のベッドで横たわる祐太の足元に座り、周りに気づかれないようにいっきにたくさんの薬を飲みました。

私は暗いトンネルの中に頭から入り、トンネルの中を旋回し、そしてぽーんとトンネルから出ると、目の前には私の背丈ほどの大きな鏡がありました。
鏡には私のこれまでの人生が、走馬灯のように写し出されていました。

どこからか「お母さん、お母さん」の声が聞こえ、目が覚めました。
「お母さん、何でそんな事をしたの・・・」子供達がベッドの周りを囲み、目を真っ赤にして泣いていました。
でも何で死のうと思ったのか、我に返ると事の重大性に、子供達や病院側に迷惑をかけてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
「生きていて良かった」もし、発見があと5分遅ければ私は助からなかったと後から聞きました。

 

神の門

私が自殺未遂を起こし、心配した母は、私をユタのもとに連れて行きました。
ユタは「あなたは今、神ダーリで私と同じようにユタになる」と静かに語りかけました。
「私がユタに?」正直驚きましたが、自殺未遂を起こす前に私の頭の中に入ってきたのは、まぎれも無い神様からのメッセージだったのです。
そして、1週間後にユタと一緒に首里十二ヶ所に拝みに行くことになりました。
ユタの所に行った次の日でした。
アーチ型の‘‘神の門“が私の目の前に現れました。夢ではなくこの目に視えたのです。

沖縄民謡が流れ、門に向かって右側にはカーキ色の薄汚れた中国服を着た門番が立っていました。
拝みの日までの1週間毎日のように”神の門“が現れ、お拝の日には門番は、正装着(緑色の中国服)でした。
門の鍵は外され門番は鍵をガチャガチャさせながら私が来るのを今か今かと待っていました。
はじめに首里観音堂を拝みつぎに安国寺そして達磨寺で、私は居ても立っても居られず”神の門“を思いっきり開けて中へ入ったのです。
私は倒れこみ、手はしびれていました。

拝みが終わった夕方からあくびばっかり、眠くて眠くて・・睡眠薬を飲まなくても、夜の8時には眠り、朝までぐっすり眠りました。「眠い」という感覚は5年ぶりでした。
“神の門”を開けた日から不思議なことに、睡眠薬がなくても眠れるようになり、それからは精神状態も安定し、もう精神科に通うこともなく、神ダーリを終えました。
沖縄のユタになる人は、神ダーリを経験し神ダーリが終わる頃に“神の門”が現れ、門を開けて始めてユタとしての使命を授かります。

2002年にユタとしてのお役目を授かりましたが、まだまだ精神修行が待っていました。

 

~2005年~

さらなる試練

双子を妊娠中、重い妊娠中毒症でした。
そのために2人の子に影響を及ぼしてしまい、健太は軽い知的障害、祐太は脳性まひのために歩くことができず車椅子生活に。
1人だけでなく2人に障害があるとは・・・なかなか受け入れられませんでした。
2004年、健太は沖縄市立の小学校に入学。
祐太は肢体が不自由なため、特別支援学校に入学しましたが1歳の時に気管を切開し、医療的ケアのため私は学校待機でした。
そんな事から自分の時間が全くなく、ユタの道を開きましたがユタになるどころではありませんでした。
それが、祐太が小学部2年生の時でした。
持病の気管支喘息が完治し気管の状態も良いことから、気管を閉じることになりました。
気管を閉じる前にカニューレを抜き、Tチューブを気管に装着しました。
3ヵ月後に抜去予定でしたが、抜去予定の前日、入浴中にTチューブがなくなっていました。
風呂場を探しても見つからず、急いで救急救命センターに行き、レントゲン検査を行いましたがTチューブは写ってなく、また、カニューレを装着に。
それから1ヶ月が経ち、食事中に咽たり、食べた物が気管から出るようになっていました。
私はTチューブが気管に落ち込んでいないか?疑問に思い、CTスキャンの検査をお願いしました。
先生はそんなはずはない、と話していましたがCTスキャン検査で、レントゲン検査では写っていなかったTチューブがはっきりと気管から食道に突き刺さった状態で写っていました。
入浴中になくなっていたTチューブは、なんだかの理由で気管に落ち込んでしまい、そうとは知らずカニューレを入れたことでTチューブは食道にまで突き刺さったのでした。
CTスキャンの検査をTチューブがなくなった日に行っていたら、こんなにも苦しい思いをさせなくてすんだのに、それからまた、祐太は長い入院生活になりました。
入院生活は6ヶ月にも及び、Tチューブを抜く手術と、気管と食道の分離手術を行いました。
飲食も出来ず、ずっとベッド上でした。
私は家に帰ることが出来ず、6ヶ月間泊り込んで祐太に付き添っていました。

 

歩いた!

歩いた時の写真

退院が近づき祐太を廊下の手すりを掴ませて立たせてみました。
入院前は支えて立つことは出来ても、まったく歩けなかった祐太が驚いたことに、手すりを掴みながらゆっくりと歩いたのです。感動でした!
入院が長くなり、筋力は衰えているはずなのに、奇跡が起きたとしか思えなく、それから介助歩行が出来るようになりました。

6か月間、非日常生活を送り、普通に生活していた事が、当たり前ではない事に気づかされました。
私には使える手もある、歩ける足もある、私達は生かされている存在。生かされていることに感謝し「人の役に立つ」ことが、人生の意味があるのだと悟りました。

 

~2007年~

ユタの仕事へ

祐太は、小学部3年生の時に気管を閉じました。
医療的ケアがないことから私は学校待機から外れ、自分の時間が持てるようになっていました。
2007年、新しい年を迎え自分の時間が持てるようになると同時に、霊界からユタの仕事に導いてくれる知らせが、次々に入ってきました。

1月のある日、10年前に亡くなった幼なじみの恵美子の夢をみました。
恵美子の実家の倉庫に仏壇があり、仏壇の中に恵美子の頭だけが浮かび、その近くには黒いヘルメットが置かれていました。

恵美子の夢

恵美子がこんな夢を見せるなんて、私は気になり恵美子の実家を訪ねました。
恵美子の母に夢の話しを伝えると、倉庫に案内してくれました。
倉庫には、夢と同じ仏壇が置かれ、近くには黒いヘルメットもありました。
恵美子は息子と2人暮らしでした。そのため仏壇を実家の倉庫に置き、そこで恵美子を供養していたそうです。
成人した息子が2年前に位牌を引きとったのですが、ヌジフアの拝みがされてなく、恵美子(魂)はまだ、そこにいたのです。
恵美子はアパート建築の作業中に転落事故で亡くなりましたが、その時かぶっていたのが、あの黒いヘルメットだったそうです。
ヌジファとは神仏や魂や遺骨などを移動するために霊をぬくこと。

恵美子の夢からしばらくして、また霊界から知らせが入ってきました。
霊視を行うと、だいぶ前に亡くなった親戚のおじいさんからでした。おじいさんが言うには、「息子の法事はちゃんとしているのに、わしはまだかね~?」と。
法事の催促のようでした。
亡くなったおじいさんの家に行き、おじいさんから法事の催促があったことを嫁さんに話しました。
嫁さんは「おじいの法事は33年忌まで終わっているはずだけど・・」と、言いながら法事の帳簿を調べていました。
嫁さんは帳簿を見ながら「あっ、おじいの33年忌はまだやってなかった!」本当なら33年忌の法事は、2年前だったのです。
おじいさんは自分の法事が行われないことに、私を通して教えたのでした。
奇しくも私の元に知らせが入った、1月23日はおじいさんの命日だったのです。

実家の近所を歩いていた時でした。
ある一軒の家から亡くなっている若い女性が現れ、「私は自動車事故で亡くなったゆう子です。子供の父親の所に行きたい」と、私に訴えました。
この家にはたしかに未婚で子供を生み、子供が6ヶ月の時に亡くなった若い女性がいました。
私にそんなことを言っても、子供の父親は結婚しているといいます。
死後5年経つというのにまだ、子供の父親を思い続けていたとは、なんだか切なくなりました。

私が住む沖縄市から車で15分、自然豊かな村があります。
離島でもないのに今どき空き家が多く、ひっそりとしています。
ここは行方不明者や不可解な死に方が多く、ここに住む男性は早くに亡くなる人が多いことから、昔からこの一帯は「未亡人場所」と呼ばれているそうです。
ここは姉の嫁ぎ先ですが、姉の嫁ぎ先ももう、誰も住んでいません。
ここの場所に行くと、倒れそうになるくらいの、強い霊気を感じました。
近くの山のふもとから発せられているのを感じ、山に登ろうとすると「あっ、ここだ!」そこには石を積んだような後があり、石の上には草木が生えていました。
近くに住む老人に、ここの場所は何だったのか聞くと、昔『ガン屋』だったそうです。
ガン屋とはガンを置く場所で、ガンとは遺体をおさめた棺箱を墓まで運ぶ朱塗りのみこしのことです。
戦後ガンは霊柩車に変わり、今ではガン屋は見かけることはありません。
ガン屋の跡地はきれいに清めないといけないのですが、そこは全く清められていませんでした。
その事を区長に話しに行きましたが、区長は「僕は何も感じないから」と話にはなりませんでした。
その後、そこに行くことはなくガン屋の跡地を清めたかは分かりませんが、伝えたことでお役目は、はたせたと思います。

私が小学2年生の時に亡くなった母方の祖母から知らせが入りました。
祖母が言うには「自分の墓を開けてほしい」と。
墓を開けなさいと言われてもそう簡単に墓を開けられるわけもなく、私はそのままにしていました。
しかし、祖母はしきりに私の元に現れ、「急いで墓に来て」と。
祖母の墓に行くと、マイナスの霊気がただよっていました。
墓の中に異変を感じ、母の兄妹に相談し、墓を開けることに。
しかし、おじさんだけは墓を開けることに反対していました。
おじさんは墓を開ける直前まで「誰が墓を開けてと言った?」私が「天国のおばあ」と言うと「なに~!」と、すごい剣幕でした。
おじさんに反対されながらも私の兄弟が2人がかりで重い墓石を開けると、皆いっせいに「あっ!」と驚きました。
祖母の骨壷が倒れて蓋が開き、細かくなった骨が辺りに散乱していました。

祖母の骨壷

墓を開ける直前まで反対していたおじさんも、墓の中の様子に「開けてよかった」と言ってくれました。
皆で骨を拾い集めて骨壷に納め元の状態に戻しました。
そして重箱や果物などをお供えし供養しました。

自分の骨壷が倒れ、落ち着かなかったおばあちゃんでしたが、やっと落ち着きを取り戻し、安らかに天国へと昇っていきました。

2007年、霊界から次々に知らせが入るようになり、私のことが口伝えで広まり、悩みある方が私のもとに相談に訪れるようになりました。

相談中
(健康問題、家族の問題など、守護霊やご先祖と交信し、メッセージを受け取り、鑑定を行う)

私がこうしてユタになったのは、双子の子がいたからに、ほかならない。障害がある2人の子育ては、健常児と比べてかなり大変でした。
しかし、その大変さがマイナス思考だった私はプラス思考に変わり、未熟だった私の魂を磨きあげ、人間的にも霊的にも成長できました。

 

沖縄のユタとなって早10年、悩みある方のお役に立てることが何よりも幸せです。